契約、その二
突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた
創世記15章17節
ラウレンチオ 小池二郎神父
先月は、ノアの洪水の後、神が二度と人類を世界的規模で滅ぼすことがない、 虹がそのしるしであると言われた神とノアとの契約について書きましたが、
今回は、神がアブラハムと結ばれた契約について書きます。
アブラハムは、創世記17章5節以前では、アブラムと言われています。 アブラムはヘブライ語で「わが父は高められる」の意味で、アブラムはイスラエルの先祖であり、 テラの子です。
彼は創世記11章26節から17章4節までアブラムと呼ばれ、次節以後アブラハムと呼ばれるようになりました。
「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。」(17章5節)
語源的に、なぜアブラハムが「多くの国民の父である」ことを意味するのか、今のところ分からないそうですが、 聖書はこの改名をもって彼の使命を告げています。
以後、彼は肉体によるイスラエルの父であるばかりでなく「神への正しい信仰を持つすべての人の父」となりました。
「突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」この状況は壮絶で、私にとって一番印象深いところです。
神は切り裂かれた大きい動物の間を激しい勢いで通り抜けられました。ヘブライ語で契約を結ぶことを契約を切ると言うのだそうです。
その当時の異民族間の契約は動物を真っ二つに切ってその間を双方の当事者が通ることによって結ばれました。 契約に反すれば、この動物のように切り裂かれても致し方ないという意味でした。
キリスト生誕前1800年頃、現在のペルシャ湾沿いにあったカルデアのウルで繁栄していたアブラハムが、神の召し出しに答え、行く先も分からないまま、
多くの財産を残し、限られた一族を伴って西北に向かって旅立ちました。そのアブラハムの信仰に対して神は恵みとして、一方的契約を結ばれました。
「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。 こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、 わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。」(ローマの信徒への手紙4章11節‐12節)
神がアブラハムにされた契約の全貌をよりよく理解するために、前掲の壮絶な場面を含むより広い個所を引用します。
主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
主は言われた。
「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」
アブラムは尋ねた。
「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」
主は言われた。
「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」
アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。 ただ、鳥は切り裂かなかった。禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。
日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。
主はアブラムに言われた。
「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。
しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。
あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」
日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。
「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、
カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」(創世記15章5節‐21節)
四代は四百年に対応しています。三種類(雌牛、雌山羊、雄羊)の三歳の動物がいけにえにされたことは、 エジプトの苦難に満ちた奴隷の三世代を表し、
鳩が切り裂かれないのは、 イスラエル人のエジプトからの無事の帰還を表すためであるという聖書学者もいます。
(新共同訳 旧約聖書注解 1巻50ページ)また、フランシスコ会聖書研究所の注解書「創世記」87ページによると、 いけにえの動物をねらう禿鷹(同書の訳は猛鳥)は、
彼の子孫が約束の土地を受け継ぐ前に経験しなければならない試練や困難の象徴です。
イスラエル人が四百年を経てパレスチナに帰ることができたのは「アモリ人の罪が極みに達したからだ」と聖書は主張するのでしょうか。 私にはそのように思われます。