契約、その四
わたしの血によって立てられる新しい契約
Ⅰコリント11:25
ラウレンチオ 小池二郎神父
これまで、神とノアとの契約、神とアブラハムとの契約、そして神とイスラエルとの契約について説明しました。
今日は、一連の契約の最後に来る契約、すなわち、新約の契約について説明したいと思います。
この契約は決定的な契約です。先の三つの契約はこの契約の準備であり、前表であるに過ぎません。
旧約における新約の預言
「主であるわたし(父である神)は、恵みをもってあなた(イエス・キリスト)を呼び、あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、 捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。」(イザヤ書42章6節‐7節)
イエスは、イザヤ書の“苦難の僕”がご自分のことであることを知っておられました。
「彼(苦難の僕)は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。
…多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。」(イザヤ書53章11節‐12節)
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。
わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。
すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミア書31章31節‐33節)
わたしの律法」とは何でしょうか。それは何よりもイエス・キリストを信じること、そして彼の愛の掟を守ることです。
わたしたちは、イエス・キリストをほんとうに信じることによって、神が(父なる神)がイエスと結ばれる契約、すなわち、全人類を救う契約に与かる者となるのです。
今一度、シナイの契約に戻ります。
出エジプト記に記されている動物の犠牲とシナイの契約は、イエスの犠牲と新しい契約(新約)の前表です。
「モーセはイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。
モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。
彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、 モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。』(24章5節‐8節)
イエスの犠牲と新約
少し長くなりますが、イエス・キリストがこの世に来られたことの真相を『ヘブライ人の手紙』に語ってもらいましょう。
それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。
「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために体を備えてくださいました。
あなたは、焼き尽くす献げ物や罪をあがなうためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。 『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」
ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪をあがなうためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、
好まれもしなかった」と言われ、次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。
第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、 わたしたちは聖なる者とされたのです。(10章5節‐10節)
主のご苦難は四つの福音書のいずれにも、核心的な出来事として記されていますが、前夜のミサの制定は、共観福音書とコリントの信徒への第一の手紙11章と、 合計4個所に記されています。
コリントの信徒への第一の手紙が書かれたのは、早ければ紀元54年、遅ければ紀元57年で、一番早く書かれたので、これを引用します。
「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。 すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
感謝の祈りをささげてそれを裂き、 『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行ないなさい。』と言われました。
また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。
飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(11章23節‐26節)
ここにも契約という言葉が二回出ます。言うまでもなく新約の、そして最後の神と人との契約です。
イエスは、十字架の大きい代価を支払って、わたしたちの罪のゆるしを勝ち取ってくださいました。
「わたしの記念として、このように行いなさい。」これが引用個所に二回出ますが、これが、ミサが幾たびも繰りかえし行なわれる理由を示しています。
テスタメントゥとは
ところで、ヘブライ語で契約は「ベリート」、ギリシャ語に訳されたとき、「ディアテーケー」になりました。
摂理的と考えてよいと思いますが、ディアテーケーには遺言という意味もあります。ディアテーケーでは契約がもたらすものまでも、
言語としても表しています。ディアテーケーは、ラテン語では テスタメントゥムと訳され、 英語では テスタメントゥ と訳されています。
英語で旧約聖書は オールド・テスタメントゥ、 新約聖書はニュー・テスタメントゥ、合わせるとバイブルになります。