わたしの時はまだ来ていません
ヨハネによる福音書2章4節
ラウレンチオ 小池二郎神父
「3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』 と言った。4イエスは母に言われた。
『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるので す。わたしの時はまだ来ていません。』」(ヨハネによる福音書2章3節‐4節)
吉報のこの号は7,8月合併号です。8月15日は聖母被昇天祭で、他の教会と大差はないかもしれませんが、当教会はこれまでこの祭日を大切にしてきました。 そういうことを年頭において、表題の聖句を選びました。
聖母マリアは女神ではありません。神に祈ることと聖母マリアに祈ることとは同じではありません。 神は全能者であり、宇宙の創造者かつ支配者です。
聖母マリアはいかに優れていても神によって創られた人間にすぎません。 その清らかさも神の賜物であり、カトリック教会が教える例外的恵、無原罪も、イエス・キリストの十字架の救済の恵によるものです。
聖母マリアに祈るのは、聖マリアに神様に、あるいはイエス・キリスト様にお願いくださいとお願いすることです。
ところで神様にお願いしてくださいと祈ることは必ずしも聖母マリアに限りません。
「ヤコブの手紙」の著者は、「主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。」(5章16節a) さらに「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。
エリアは、わたしたちと同じような人間でしたが、 雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。
しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。」(同章16節b‐18節)と、正しい人に祈りを依頼することをすすめています。
以上、カトリック信徒には分かりきったことを書きましたが、なぜ、「ヤコブの手紙」の著者は、聖マリアに熱心に祈りなさいとは書かなかったのでしょうか。
それは、大問題です。答えは次のことにありそうです。
わたしは、信仰にも信心にも発展があって当然だと思います。キリスト教の原点に帰ること、聖書に帰ること、初代教会に帰ることは、
何れも大切なことですが、 信仰と信心のあり方には発展があります。教会は生きており、ダイナミックだからそうなると思います。
教義も時代と共に発展します。根本的な啓示はすでに終わり、それを変えることはできません。 また公会議のどの議決をも否定することはできません。
それにもかかわらず、なお発展する余地が十分にあります。 これは神学の問題で、大いに議論されてきたところです。
教会は、聖霊の働きにより絶えず成長し、自らに託された真理を新しい時代に合った新しい言葉で説明する使命を帯びています。 またその発展により自らをも常により豊かにしなければなりません。その一つが聖母信心です。
ところで、マリア様を大切にする根拠は聖書のどこにあるのでしょうか。
マリア様のことは聖書にはあまり書かれていないと思い込んでいる人が少なくありません。 しかし実際は、聖書の中でも最も大切な福音書にマリアに関する記事は意外に多いのです。
聖ペトロの記事と比較してみましょう。聖ペトロのことが一番長く書かれているところは、フィリッポ・カイザリアでイエスがペトロに首位権を与えられる場面、
マタイの16章13節から20節までだと思いますが、ここは新共同訳で(以下同様)19行です。 マリアの賛歌はルカの1章46節から55節までで、これだけでも24行。
マリアが活躍するカナの婚礼の場面は、ヨハネによる福音書2章1節から11節までで、24行です。 この他にも、マリアについての大切な記事が散在しており、その記事は決して少ないとは言えません。
今回は、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネによる福音書2章4節)の短文を一緒に考えてみましょう。
これを書くために、少し古くなりましたが、ルドルフ・シュナッケンブルグ著「ヨハネによる福音書」第1巻(1968年)を読みました。
この文には「婦人よ」と「わたしと何の関わりがあるか」と「わたしの時」の3つの検討事項があります。
まず「婦人」について。セム系言語では婦人は母親には決して使わなかった言葉だそうです。 シュナッケンブルグは「婦人よ」は少し冷たいが失礼な感じはないと言っています。
特別の使命を表しているようです。ヨハネではもう一度、「婦人よ」を使っています。
「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」(19章26節)特に後の場合、マリアの特別の使命が示されているように思われ、それは人類の母エバをも思い出させます。
「わたしとどんなかかわりがあるのです。」これは難解です。
これまで数限りのない解釈がなされてきています。
ギリシャ語の直訳は、「私と、そして、貴方に、何が(あるのです)」「何が」の答えに、わたしは、これまで、「何が」に当たる部分に、
例えば、「救済の共通の使命」など、イエスとマリアに共通する何かが隠されている可能性があると考えていましたが、 シュナッケンブルグは、旧約聖書にも、
新約聖書にも、セム語の世界にもギリシャ・ローマの世界にもそのような読み方は一切なく、 これは常に「私と貴方は関係ない」というきっぱりとした拒絶の言葉であると言っています。
ただし、彼は、この言葉の発音の仕方と、次の「わたしの時」の読み方によっては、 ニュアンスが変わるとも言っています。
「わたしの時」の読み方とは、「わたしの時はまだ来ていない」を肯定文とするか、疑問文とするかの問題です。
ニッサの聖グレゴリオ(330年以降‐394年)モプスエスティアの司教テオドロス(350年‐428年)エフライム(306年頃‐373年)など教父たちや、 現代カトリック聖書解釈学者の中に疑問文に読む人が多いそうです。
「わたしの時はまだ来ていません?いや、もう来ています。」と読むことを前提に、 「私と貴方に何が」をユーモアを込めて(上掲著者はレトリック的にと言います)発音するなら、
この言葉は拒絶でなくなりますが、ここはそういう雰囲気ではありません。
「わたしの時はまだ来ていません」は、やはり肯定文として受け取るべきではないでしょうか。
しかし、目前に迫っている「わたしの時」もマリア様がイエス様に話しかけられた時点ではまだその時ではなかったのです。
またこの「わたしの時」を、ヨハネ19章26節の時と取る必要もありません。 11節から見て、カナの奇跡は完結した一つの出来事であり御父にもイエスにも光栄の時だったと思います。
イエス様が、使徒を選び、ファリサイ派と戦い、十字架にかかるなど重要なことを決められた時、一々マリア様と相談してされたわけではありません。
しかし、このことは、「聖マリアは神のすべての恵の仲介者である」という信仰(教会から正式に宣言されてはいません)を打ち消すものではありません。
マリア様がある種の拒絶を感じられたかどうか、今のところ分かりませんが、 すぐに、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」(5節)と召使たちに言われたことにその使命が現れています。