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心を入れ替えて子供のようにならなければ…
マタイによる福音18章2節
ラウレンチオ 小池二郎神父
 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われた。 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイによる福音18章1節‐5節)  マルコによる福音が、この場面をより鮮明に描きます。
 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。 「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。 わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコによる福音9章33節‐37節)
 マタイの20章では、ゼベダイの息子たち(ヤコブとヨハネ)の母親が、恥知らずにも、 イエスに、新しい御国で自分の息子達に高い地位が与えられることを願い、 これを聞いた弟子達が、みな腹を立てます。 弟子たちは、社会的に有力な人たちではあり ませんでしたが、自分は先にイエスに従ったとか、自分の勤勉さや出身の村の優位度などを理由として、 それぞれが、イエスの新しい国で、より高い地位につくことを願っていたと思われます。
 イエスの次の言葉が大切です。
 「この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
 天の国の価値の尺度はこの世のそれと違うことを教えられました。 天の国では、命令したり従ったり、敏捷だったりのろまだったり、要領が良かったり悪かったりの区別はありません。 そこに入るために求められていることは、先入観なしに天の御父のお示しを信じ受け入れることです。
 弟子たちが、宣教に成功して帰った時、イエスが感動されたのも、子供のように新しい教えを受け入れる人々の心だったのです。
 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。 これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」(マタイによる福音11章25節‐26節)
 カトリックの教えは、ほんとうに大きく、また中身のある教えです。 生き方を変えることも要求されます。 これを受け入れるためには、イエスご自身を感動させた子供の心が求められています。 わたしたちの信仰生活においても、この原点に立ち返り、イエスの感動を自分の感動として感じたいものです。
 ところで、1939年、ナチスに地位を奪われるまでベルリン大学の宗教哲学教授、 戦後はミュンヘン大学の哲学教授だった司祭、ロマーノ・ガルディーニ(1885‐1968)は著書「主」(1937年)のなかで、 イエスの子供に関わる御言葉から、次の三点を読み取ることができると言います。
 第1点は、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 これは、一人の子供を、一人の人格として、大切に受け入れるということです。 わたしたちは、無意識の内に、自分を良く理解してくれる大人にだけ関心を向けがちです。 このような傾向は、熱心な教育者や、母親の心を持つ人々の間にさえも広がっています。
 第2点は、「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」 (マタイによる福音18章6節)「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。 言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(同10節)
 子供は、悪意の大人によって、どのようにでも悪くされる可能性があります。 子供は完全に大人の配慮の下に置かれた存在です。 イエスの「気をつけなさい」は厳しいお言葉であり、イエスは、天使が子供と天の父との間に立っていることを教えます。 新約聖書に、天使の出番は必ずしも多くはありませんが、イエスはここに天使のいることを知らせます。 天使は、カードに描かれる、ひ弱な、センチメンタルな存在ではなく、 そのメッセージが「恐れるな」で始まるほど威厳があり、力のある存在です。 イエスは天使をそのようなものと考えておられます。 子供の背後には天使と神がひかえている、これがイエスのメッセージです。
 第3点は、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」「子供のようになる」、これが神の国に入る条件だということです。
 しかし、この言葉は、なんと長年、誤解され、悪用されてきたことか、と彼は言います。 つまり、人間的にも宗教的にもよい加減な生き方の弁解の理由とされたのです。
 「子供のようである」ことを目指すことは、決して、大人の弱さや依存的傾向を容認することではありません。 彼によれば、そのような負の影響もあったというのです。 イエスの目に、大切なことで、子供にあって大人にないものは何か。
 何が基準で、神の国にふさわしいと言えるのか。子供の愛らしさか、決してそうではありません。それでは、その無垢さか。
 聖書は、子供が無垢だというにはあまりに現実的だとガルディーニは言います。 彼は生後一日の赤ちゃんも悪の保菌者だといいます。 子供に内在する悪は、大抵は眠っているが、時には、はっとさせられるほど現実のものとなることがありうる、とガルディーニは言います。 しかし、パウロは「悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」 (コリントの信徒への手紙Ⅰの14章20節)と言っているのはどんな意味でしょうか。 子供には子供にしかない無垢な面のあることは確かです。 しかし、もっとも深いところで、子供も決して無垢の鑑ではないというべきなのでしょうか。
 最後に、子供から学ぶべき決定的なことは何でしょうか。彼の言うことはわたしには難しいのですが、こんなことを言っています。
 大人は自己中心的である。彼は絶えず吟味し、試し、自らを裁く。ここに責任感と生きることの自覚から生じる真面目さがある。 大人は周辺と自分との間で、常に、自分を対象化するので、大人の世界では、事柄と人間の直接性が破壊されている。 しかし子供の世界はそうではなく、反省もしない。 彼の人生は、むしろ彼の外で動く。 彼は世界とその中にあるすべてのものに開かれている。この開かれているということが神の国を受け入れるために決定的に重要なのだ。
 彼は、ファリザイ派の人々も、律法学者も大祭司も、長年の偉大な伝統につながれながら、何と大人であったことか、と嘆きます。 約束された方が到来し、予言は成就し、歴史がまさに完成しようとしたとき、彼らは、人間の言い伝えにこだわり、 過去にしがみつき、大切なものを受け入れることができなかったのです。
 子供の心とは、その生活のすべてに、天の御父を見る心です。このことには忍耐と努力の積み重ねが求められます。 これこそが聖ヨハネの「世に勝つ信仰」(ヨハネによる第一の手紙5章4節)であり、 心を入れ替えて、子供のようになることは、成熟したキリスト信者になることでもあります。