心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである
ラウレンチオ 小池二郎神父
イエスはこの群集を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。
大いに喜びなさい。 天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
(マタイによる福音5章1節‐12節)
今回、引用が長くなりますが、イエスのお考えの全体を理解するために、ルカによる福音もあわせて読んでください。
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。
あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
(ルカによる福音6章20節‐26節)
山上の説教は、マタイは、5章6章7章の3章ですが、ルカは6章だけです。 また、マタイの真福八端に当たるところは、ルカでは4つしかありません。その代わり、ルカには4つの不幸があげられています。
マタイにしてもルカにしても、山上の垂訓と言われているところは、比較的に短い期間にイエスが集中的に方々で話されたことを一個所にまとめたようです。
また、ルカの方が、簡潔で、こちらの方がイエスの実際のお話に近かったのではないかと言われています。 しかし、どちらも本質は変わりません。マタイの方が誤解を避けようとしてやや説明的です。
マタイはユダヤ教からキリスト教に改宗した人々のために書き、ルカは異教徒、例えばギリシャ人からキリスト教に改宗した人々のために書いたと言われています。
イエスの宣教の拠点カファルナウムの近くの小高い丘に「垂訓の山」と言われているところがあります。 地理的にそこでイエスの話があった可能性もありますし、
それ以外のところで話されたこともあったはずです。 しかしモーセがシナイ山で神の言葉を話したなら、新約のモーセ(イエス)も山で話すのが相応しいという考えがユダヤ人にありました。
しかし、ルカの場合は、イエスが山から下りてから話されたことになっています。 異教徒には、イエスが山から下りて、平地でしみじみと話される方が山上でお話になるより相応しかったのです。
今日は、マタイの真福八端とルカのそれにあたるところだけを比較して読んでいただきましたが、イエスの同じ価値観を汲み取っていただきたいと思いました。
なかでも、「心の貧しい人は幸い」と言われる人の心の貧しさこそ、イエスが評価される各項目に共通した根本精神ではないでしょうか。
それは、柔和な人にも、悲しむ人にも、義に飢え乾く人にも、憐れみ深い人にも、心の清い人にも共通しているものです。
「心の貧しさ」に当たるヘブライ語は、「アナウィム」と言うのだそうですが、翻訳される場所によっては、
「しいたげられている者」「苦しむ者」「あわれな者」「貧しい者」「柔和な者」「へりくだる者」「弱い者」などとも訳せるようです。
詩編で言えば次の数個所の斜体部分が「アナウィム」に当たります。
「貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられ…、貧しい人を捕らえようと待ち伏せされる」(詩編10:2、9)「貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても、
主は必ず、避けどころとなってくださる。」(詩編14:6)「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。」(詩編22:25)そのほか、
詩編にはたくさんあります。新約聖書では、ヤコブの手紙の「愛する兄弟たち、よく聞きなさい。 神は世の貧しい人たちをあえて選んで、
信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、 受け継ぐ者となさったではありませんか。」(2:5)の貧しい人たちがこれに当たります。
確かに、常識から言うと、「富んでいる人は幸い」「知識のある人は幸い」「笑う人は幸い」などが真実でないわけではありません。
また実際、ヨブ記、箴言、コヘレトの言葉などを見ると、旧約聖書自体にそういう評価も見られます。 しかし、
イエスは、ぎりぎりのところで、一見逆説的に見えるこれらの言葉に、「神の真実」をお見せになっておられるのではないでしょうか。
この「貧しい人は幸い」の理解にこそ、「はっきり言っておく。 心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」
(マタイによる福音18章3節)とのみ言葉への同意と共感が求められるのではないでしょうか。
当分、山上の垂訓について書かせていただきます。
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。 人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(1コリ1章26節‐29節)