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子よ、あなたの罪は赦される
マルコによる福音2章5節
ラウレンチオ 小池二郎神父
 これまで数回、マタイによる福音の山上の垂訓(5、6、7章)から選んだ聖句を取り 上げましたが、今回は、そこから少し進んだところを取り上げます。
 マタイによる福音で山上の垂訓に続く8章では、イエス・キリストの奇跡が述べられています。 重い皮膚病の治癒、中風の百人隊長の僕の治癒、 ペトロの姑をはじめとする多くの病人の治癒、そして、大自然と悪霊に対する治癒と、短いながら、 イエスの全被造物に及ぶ力を示す一連の奇跡が述べられています。 そして、9章の最初に、 罪のゆるしが絡むより高度な物語、今日取り上げる中風の人の癒しの物語が述べられています。
 この物語は、マタイ9章1節‐8節(新共同訳で25行)、マルコ2章1章‐12節(新共同訳で16行)、 ルカ5章17節‐26節(新共同訳で26行)と共観福音書のすべてに取り上げられていますが、 マルコが本になっているようであり、詳しくもあるので、 今日はマルコによる福音書を取り上げることにします。
 中風患者をイエスのもとに運んだのは4名だったということは、ただマルコによる福音だけが伝えています。

 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。 イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。 しかし、群集に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、 イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。 神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。 「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。 人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。(マルコ2章1節‐12節)

 人が、病気から癒されたいという望みは本当に大きいものです。 世の中には、沢山の病院がありますが、そのすべてが、人の病気から癒されたいという人々の願いと固く結ばれています。 病院のおかげで病気が癒されることも多いですが、癒されないこともあり、最後は、人は、何かの病気が癒されないで、この世を去ってゆきます。 しかし、罪が赦され罪から癒されることも、病気から癒されることと同様に、人にとって望ましいことです。 実際は、罪の赦しは、からだの病気の治癒以上に大事なことかも知れません。
 今日取り上げている中風の人については、共観福音書のどの個所にも、罪を赦していただきたいという本人の願いが述べられていません。 しかし、この人は、中風からの治癒と同時に、罪を赦されたい、罪から癒されたいと思っていたに違いありません。 なぜかと言うと、罪については、神様でも、罪を悔いていない人の罪をお赦しになることがおできにならないからです。 神様が、罪を赦して欲しいと思っていない人の罪をお赦しになる場合は、まず、その人に、罪を赦されたいという望みを起こさせなければなりません。
 四人の男たちは本当に親切でした。また信仰がありました。 中風の人の罪の赦しまでは願っていなかったかも知れませんが、 イエスだったら、病人を癒すことができると信じ、それを願って、屋根をはがして穴をあけ、病人をイエスの前に釣り降ろしました。
 深い信仰と情熱を感じます。
 イエス様は、まず、この病人の罪を赦されましたが、福音書はその理由を、本人の信仰というより、「(イエスが)その人たちの信仰を見て」と説明しています。

 今年の灰の水曜は、2月の21日で、その日から四旬節が始まります(復活祭は4月8日です)。 3月10日(土)と11日(四旬節第3主日)に御受難会のウォード神父様にお越し願って、 カトリック甲子園教会の黙想会と共同回心式を行なう予定ですが、 この機会に、自分のことだけでなく、参加者全員が罪から清められ、必要ならば、体の病気からも解放されることを心から願いたいと思います。