日曜日を大切に
四旬節のテーマの一つ
ラウレンチオ 小池二郎神父
神が、最初に安息日をお決めになったとき、安息日が週の第一日、つまり日曜日に移動することが織り込み済みだったと考えられます。
ヘブライ語で安息日のことはシャバト、実際には現在の土曜日ですが、ラテン系のヨーロッパの言葉の土曜日は、 ほとんどがシャバトに由来しています。
イエスの復活という歴史上最も重大な事件によって、キリスト信者の安息日は次第に土曜日から日曜日へと移動しました。
毎月、吉報のこの個所に、山上の垂訓から選んで語句の感想を書かせてもらっていて、しばらくは、これを続けようと思っているのですが、 今日はその方針から離れ、安息日のことを少し書かせていただこうと思います。
最初に長文ですが、安息日について、ヘブライ人への手紙4章の一部を引用します。
神の民に残された安息日 9節
「信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。
『私は怒って誓ったように、《彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない》』(詩編95:11)
と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。
なぜならある個所で七日目のことについて、『神は七日目にすべての業を終えて休まれた』と言われているからです。
そして、この個所でも改めて、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と言われています。
そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、
不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を『今日』と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、
『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない』
とダビデを通して語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするなら、 神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。
それで、安息日の休みが神の民の残されているのです。 なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。 さもないと、同じ不従順 の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。」(4章3節―11節)
恐れずに、皆さんの時間をキリストに
前教皇ヨハネ・パウロ二世は次のように言われました。 「わたしはすべての人に、日曜日を再発見するよう強くお願いしたいのです。
恐れずに、皆さんの時間をキリストに捧げてください。 … キリストに時間を捧げることは、決して時間を失うことでは ありません。
むしろ時間を獲得することです。 それによって、わたしたちの関係と生活全体は、確かにより人間らしくなるのです。」((教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的 書簡「主の日―日曜日の重要性」1998年5月31日、以下「主の日」)
わたしたちも、今日は、日曜日の重要性について考え、この四旬節のテーマの一つにしたいと思います。
復活祭こそ私たちの最大の祭日です。そして、実は、四旬節の6回の日曜日を含め、 年中どの日曜日も復活を記念する喜びの日です。
すべての日曜は復活の記念日
聖書の大家、聖ヒエロニムス(340年頃‐420年頃)によると、 すべての「日曜日は復活の日です。この日はキリスト者の日、わたしたちの日です。」(
復活の主日の説教から)一年中のすべての日曜日がイエスの「復活の日」です。 四旬節は復活の準備の期間で、自分のキリスト教を根本から見直し、神の啓示の偉大さをより深く理解し、
ゆるしの秘跡を受け、善行に励む時期です。しかし、この時期が悲しみの季節と言われた時代もあり、今も変わらず慎みと、節制と犠牲の季節です。 そんな時期であっても、日曜日は復活の日であり、喜びの日です。
復活祭の日付の決め方
今、わたしたちは、四旬節の初期の段階にいます。今年の灰の水曜日は2月21日で、 四旬節第1主日は2月25日でした。四旬節の先に迎える復活祭は4月8日です。
少し脱線しますが、復活祭に早い年と遅い年があります。 その理由は、イエス様の亡くなったのは、当時のユダヤ暦、ニサン月の14日で、
聖金曜日をそれにできるだけ合せるようにしているからです。 ニサン月の14日は、春分後の満月の日です。現在の春分後の金曜は満月とは限りません。
春分が満月でなければ、その後の満月後の金曜日を聖金曜日とします。 ですから、その2日後が復活祭になります。 ちなみに来年の復活祭は3月23日で、
私の記憶にある限り最も早い復活祭です。 2011年の復活祭は、4月24日で、これは一番遅い復活祭ではないでしょうか。両者には1月以上の差があります。
日曜日は安息日に組み込み済み
「すでに創造の初めの時、神の計画にはキリストの『宇宙全体におよぶ使命』が包み込まれていました。
このキリストを中心とする見方は、時間の軌跡全体にわたるもので、 神がすべての仕事を終えて『第七の日を祝福し、聖別された』(創世記2:3)とき、
神の心から満足したまなざしのうちにありました。 聖書の第一の創造物語を伝える祭司資料の著者によれば、そのとき『安息日』が誕生したのです。
これは第一の契約の特徴をよく表すもので、新しい決定的な契約の聖なる日をいわば前もって告げています。
『神の休息』(創世記2:2参照)というテーマと、 エジプトを脱出した人々が約束の地にはいったときに神が彼らに与えた休息(出エジプト33:14、申命記3:20、12:9、ヨシュア21:44、詩編95:11参照)は、
新約聖書では決定的な『安息の休み』(ヘブライ4:9)という光のもとで読み直されます。 この『安息の休み』の中に、キリストは自らの復活によってはいられたのです。
神の民は、キリストによって示された決定的な従順の模範にたゆまず倣うことによって(ヘブライ人への手紙4:3‐16参照)、 この同じ休息に入るよう招かれています。」(「主の日」8)
「人類の最初の安息日に、神が無から創造されたすべてのものを深く思い巡らすことに伴う喜びは、 キリストが復活の日曜日に弟子に現れ、
平和と聖霊のたまものをもたらしたこと(ヨハネ20:19‐23参照)に伴う喜びのうちに、 今はっきりと表わされるのです。過越秘儀(引用者註 聖週間の聖なる三日間の典礼のうちに想起されます。)においてこそ、
人類、そして人類とともに「今日まで、ともにうめき、ともに産みの苦しみを味わっている」(ローマ8:22)造られたものはすべて、 新しい「脱出」を知るようになりました。
この脱出は、キリストとともに「アッバ、父よ」(ローマ8:15、ガラテヤ4:6)と叫び声を上げることができる神の子の自由を目指します。 このような秘儀に照らしてみれば、
主の日に関する旧約のおきての意味は新たにされ、完成され、 復活したキリストの顔を照らす栄光(二コリント4・6参照)においてことごとく明らかにされます。
わたしたちは「安息日」から「安息日の後の第一日」へ、第七の日から第一の日へと移ります。主の日はキリストの日となるのです。」(「主の日」18)
「主の日」の引用が長くなりましたが、優れた使徒的書簡の一つだと思います。
初代教会においては、信者は、最初は旧約の主の日、かつ安息日である土曜日と、 新約の主の日である日曜日の両方を祝っていたようですが、
やがて日曜日だけを祝うようになりました。 勿論、旧約の安息日の意味が失われることなく、キリストの日、 キリストの勝利の日が、主の日となりました。
わたしたちが再臨の主を迎えるまで、 日曜日は、「根源の祝日」(第二バチカン公会議「典礼憲章」106)なのです。
束の間の瞬間を永遠の種子に変える日
「また日曜日は、復活した歴史の主である方が暮した時間が、わたしたちの幻想という墓場ではなく、
いつも新しい未来の揺りかごであること、すなわち、 この世の生活の束の間の瞬間を永遠の種子に変えるためにわたしたちに与えられた良い機会であることを告げ知らせるのです。
日曜日は将来を見つめるようにという招きです。 この日は、キリスト者の共同体がキリストに向かって「マラナ・タ(主よ、来てください)」(一コリント16:22)と叫ぶ日です。(「主の日」84)