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御名が聖とされますように
マタイ6章9節
ラウレンチオ 小池二郎神父
 主の祈りには7つの願いがありますが、最初の願いは、「御名が聖とされますように」です。
 なぜ、この最初の大切な祈りに、神が聖とされますようにとか、ヤーヴェが聖とされますようにと言わないで、御名が聖とされますようにと言うのでしょうか。

 聖書の「名」でわたしの頭に自然に浮かんだのは、「言葉は、自分を受け入れた人、 その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1章12節) 「信じないものはすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからであ る。」(ヨハネ3章18節)

 なぜ聖書には普通の日本語より多く「名」が使われているか考えてみたいと思います。
 「新共同訳新約聖書語句事典」で調べると、「名」は151回出ます。その中には、 「十二使徒の名は次の通り」(マタイ10章2節)とか「おとめの名はマリアといった」 (ルカ1章27節)のような単純な名もありますが、 それは10パーセント以下のようです。
 今回、名とか御名とかについて考えることにしたのですが、始めてみるとそれほど簡単に総括できないことも発見しました。 しかし、今回は、とにかく、御名を尊ぶとか、御名を信じるとかについて、あるていど考えを深めたいと思います。
 「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」(マタイ28章19節)なさい。 このときの「名」と「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」 (ヨエル4章5節を引用したローマ書10章13節)の「名」とは少しばかり意味が違っているように思います。 後の方は、 「言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1章12節)の中の「その名を信じる」、 あるいは、「神の独り子の名を信じていない」の「名」と共通した意味を持っていると思います。
 さて、今日の表題の「御名が聖とされますように」の御名もこの「名」と共通の意味を持つものではないでしょうか。

 これからが肝心のことだと思いますが、主イエス・キリストはなぜ、「神が聖とされますように」ではなく(勿論、そう祈って悪いはずはありませんが)、 「(神の御名が聖とされますように」と教えられたのでしょうか。

 誰かの名前が尊敬されることは、社会的に見て大変大きな意味があります。 神の名が尊敬され、聖とされるためには、神についての正しい共通認識が前提になります。 また、社会的に神の名が聖とされるということは(これこそが神の国の建設に不可欠です)、 神についての正しい共通認識が深められていることでもあります。 神についての正しい共通認識がなければ、神の名が聖とされる願いも叶えられません。 更に、個人的にも、神が聖とされるばかりでなく、神の名が聖とされる願いには、 心の深層の問題として大切な意味があります。 尊敬する人、愛する人の名が心の中で生きることによって、その人は(勿論神も)心の深層に焼きつけられます。
 したがって、神の名が聖とされる願いは大切な願いです。
神の御名の聖域
 ところで、神という言葉は、わたしたちの身辺いたるところに見られます。 由来は分かりませんが、地名にも神戸とか神鍋、 目に見えないものにも精神(この神は心という意味のようです)とか神経など色々あります。 しかし、そういうことは私たちの信仰にそれほど危害を及ぼすものではないと思います。 本当に危険なことは、知らない内に神の概念が曖昧になり異教徒的になることです。 そこで、大切なことは、わたしたちが日々、心と会話の中で神を大切にし、 神についての共通の心の聖域を守ることではないでしょうか。
 さきに、「新共同訳新約聖書語句事典」で調べたところ、「名」は151回と書きましたが、 別に「御名」は17回(このうち3回がイエス・キリストについて、ほかは御父についてです。)、 「神の(御)名」は7回、「主の名」は12回、合計は187回です。

 最後にイエスの名についての大切な個所を引用したいと思います。
 「(イエス・キリストの」ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたち が救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12節、聖ペトロの言葉)

 使徒ヨハネも名を大切にします。
 「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ18章5節)
 「二人または三人が私の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18章20節)
 「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」(マルコ13章13節)
 「言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じた人には神の異なる資格を与えた。」(ヨハネ1章12節)