2007/07/11 三つ秘策 (声のメッセージ要約)
ラウレンチオ 小池二郎神父
皆さんが既に知って居て下さったと思いますが、8日にこちらの病院で日曜のミサをさせていただいたのですが、その日ちょうど私の甥の医者が東京から来ていまして、
「おじさん、あなたは自分では大丈夫と思っていても途中で何が起きるかしれないから、やはり外科の僕が付いている方が安全だから、帰るなら早い方がいいよ。
今日関西にいる間に帰ったら?」と勧めてくれたので、本当にうれしいことだったので帰らせていただいたのです。
そうしたら、出来上がっている所が良く出来ていて。私の想像を超えるくらいでしたよ。それまでも写真で知っていましたけれど…。 素晴らしかった。
それにまた、皆さんわざわざお聖堂にお集まり下さって、その時にまたお話が出来て、一緒にお祈りが出来た。 祝福をお与えすることが出来たというのは、忘れられないというか、神さまの大きなお恵みだと思っているのです。
でも一番大事なことで言い忘れたことがあるのです。実は24日の後に、撮ってくださったDVDで池長大司教さまのお説教のお話を聞いたのです。「あ、これこそ私も期待していたお話だと」思いました。
どういうことかと申しますと、やはりこれからの教会は、信者がカトリック要理を自分で出来なければ、一人前でないということです。
一人の人を信者に導くということは、全体的にキリスト教を理解していないとだめだし、ラテン語の「アポロジェチカ(ギリシャ語からきている)」教理教育をするということは、護教家でなければならない。
自分の実践的な態度でキリスト教こそ本当の宗教だという、その確信のもとに知識を上手に使って、
それこそペトロの言葉だったら「あなたの希望をきく人にはそこはどこにあるかを説明しなくてはなりません」という言葉がありますが、そういうことが求められているのです。
それを前提としてなお皆さんの心を引こうとして、私は落成式の日に信徒会長に読んでいただいた(「ガラシア病院からの手紙」)所なのだけれど…。 「秘策」、それは何かと申しますと簡単なことであって…。
私たちは確かに互いに共同体として共同体を大事にしなくてはならない。しかし簡単に共同体というが仲良くとは難しいのです。色々な条件が違うでしょう?
それで、もっと身近なあまり大きくない目標というか、小さな目標をみんな持ったらどうかというのが最近の私の考えです。
例えば、教会に行けばあの方とあの方にたぶん会えるだろうと、そういう方が2、3人は居てほしい。そうすればいろいろな話、相談が出来るとか、そういう友達を作ってほしい。
全体として一緒に礼拝することはうれしいということでなければいけないけれど。会うか会わないかも分からない人でしょう?
そういう方であってもちょっとあまり頼りにならない。 だからその方には会ってみたいというような方を一人でも二人でも持っていれば、
やはり教会に対する考え方が変わると思う。 またそういうお友達になって上げようという、そういう試みも必要だと思うのです。
その内に教会は日曜日ごとに行っておかしくない、そういうことが生まれてくるのではないでしょうか。
それからさっきの事と順番はどちらでもでもいいのですが、教えられるところまで成長したいという・・・。
その為には模範になるテキストが必要だと思います。 それはしっかりしたものならなんでもいい。
例えば私が今お勧めするのであったら、ドミニコ会研究所編、本田善一郎訳『カトリックの教え -カトリック教会のカテキズムのまとめー 改訂版 2005年5月6日改訂第3版』。
これについては前のパパさま、ヨハネ・パウロ2世の書かれた『カトリックのカテキズム』が基になって、その流れに沿っているので、私はこれを使おうと思っている。
だけど去年私がローマで買ってとても感心しながら飛行機で読んで帰って本なのですけれど・・・。 いままで教会はローマの方に度々「ローマ自身が要約を出して下さい」という声がとてもさかんになっていた。
パパさま(ベネディクト16世)が5、6年前その委員長を引き受けられて、3月の末まで(一昨年の)そこの委員長をなさってようやく出来上がったものです。
それがパパさまの就任された年(2005年)6月29日に出ています。それを私はとても良い本だと思うようになりました。たぶん翻訳されればいままでのカトリック要理の中で最良かなと思っています。
パパさまは写真も各国で同じものを使って下さいと、そこまでおっしゃっていて、未信者にも読んでほしいとおっしゃっているのです。
これは実は死ぬまでにぼくは翻訳を完成しようと思い、甥が来たら手伝わせて寝ながらやっているのですけれど、私が出さなくても誰かがやるでしょうからね・・・。
これは『COMPENDIUM THE CATECHISM OF CATHOLIC CHURCH』英語ですが、何語でも出ています。これはちょっと楽しみにしておいて下さい。 これはやはり使ってほしいと思う。
そういう中心が無いと、「この人の理解しているキリスト教」と「この人の理解しているキリスト教」が違ったらつまらんじゃないですか。 だから皆ある程度、信仰の教養で同じところを持たないとだめという気がする。
レンブラントの『放蕩息子の帰還』
第3の秘策というのは、カトリック教会は色々な良いことをやって来たと思います。
例えば、マリッジエンカウンター、聖書100週間、ちょっと前ならクリシリオ、レジオ・マリエ。皆それぞれいいですよ。
だからやる人はやってほしい、お互いに足をひっぱったらだめです。 やれるだけの事をやったらいい。学生会もいいし、学生会だっていろいろなやり方があるじゃないですか。
なんでも奨励してみる。そしたら今の日本に適応するかしないか自然に分かってくるでしょう。
私どもは第3千年紀の扉に立って、ちょっと立ち止まってしまうようなところがあるわけです。これからの教会はどうなるのだろうかと・・・。
過去にも失敗はあるしね。 どうしたらいいかと思うのですね。でも何も心配いらないと、それは御父に従いたいという・・・。「お父さん」というのはカトリックの本質ですよ。
「マリアさま」というのは決してカトリックの本質ではない。「父なるおとうさん、ぼくが少々悪い事をしてもあなたは赦してくださいますね。」というくらいの親しいお父さん。
偶然ある方がお見舞いにレンブラントの『放蕩息子の帰還』の絵画をくださいました。これはキリスト教の本質です。「アッパ、父よ」という。ですからこの方に従って行けばいいのです。
これからの教会は無前提ですよ。イエスさまと洗礼者ヨハネがある意味で外見的な経験も無く、本当にただ自然に進んで行ったみたいに進んで行けばいいのでないかなと思っています。
だからものすごく可能性のある世紀に入っているとも言える。もう西洋、東洋にこだわらなくてもいいかもしれない。そんな時代なのです。
それで私個人で今日はお話しませんけれど、イエスさまがヨハネの福音書19章30節で「なしとげられた」とおっしゃった時、イエスとしてはやれることは全部やった。
だから秘跡的メモリーの中にイエスのやったこと全部含まれているけれど、イエスさまとしてやらなかったことは一つもない。
後は聖霊に従えばいいわけ。ですから聖霊が導くからぼくらは自由自在なのです。そういういい時代に直面しているわけよね。
大げさだけれど、うちの教会が一息ついて、「なんでもせい」と学生たちにも奨励かけているみたいな雰囲気にこのあいだとれたのですよね、そういう雰囲気もいいのじゃないかな。
だから皆、力を合わせて、また私どもとしては甲子園教会というところを通して発展することをお互いやっていきましょう。
それが私の秘策かな。
三つくらいに結局分けられると思いますけれど。
こんな時まで説教してごめんね。
こんなつもりではなかったのですけれど。
ありがとう。
※この文章はガラシア病院で録音された「声のメッセージ」の要約です。 6月24日のエレベータ落成式の日に信徒に宛てた「ガラシア病院からの手紙」の中の、教会を発展へと導く秘策を語っておられます。 この録音は帰天される2日前のものですが、神父さま最後まで力強く、熱く私たちに語りかけていらっしゃいます。