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主イエスのご公現
ペトロ 梅原彰神父
 主イエスのご公現は、神が人となって、その栄光をユダヤ人のみならず全人類に現されたこと、イエスこそが全 人類の救い主であることを記念する祭日です。また、救い主の招きに応じて、私たちが信仰と希望をもって父であ る神のもとへ行こうという決意を新たにする日です。
 パウロはエフェソの教会への手紙の中で、神から遠い存在であった異邦の民がキリストの光を受けて近いものと なり、聖霊によって神の住まいとなると説いています。(エフェソ2・22参照)
 今や向かうべき中心が全世界に与えられ、すべてのものが頭であるキリストを中心に、一つに集められているのです。 馬小屋に当然いるはずの人々が、不思議にもイエスを拝んでいないのです。反対に、いなくてもいいはずの異邦 人(ユダヤ人から見れば外国人)の学者たちがイエスを拝んでいるのです。
 当時の律法学者は、聖書(旧約)に書かれている、救い主がいつ、どこで誕生されるのか、頭ではよくわかっていたはずです。 二千年にわたって人々が待ち望んでいた救い主がベトレヘムで生まれるはずだということをよく知っていたはずです。 彼らのいたエルサレムから歩いて2時間ほどで行けるところに救い主が生まれるということを知りながらも、拝みに行かなかったのです。
 また、ユダヤ人の祭司たちもエルサレムの立派な神殿で、神に香を捧げながらも、神のみ子が小さな赤ちゃんに なられたということを見過ごしていたのです。
 ヘロデ王は神殿を建て直すために甚大なお金を使っていながら、ベトレヘムでユダヤ人の王、救い主が生まれたことを知りながらも、 自ら進んでベトレヘムに行かなかったばかりか、その救い主を殺そうとさえしたのです。
 僅かな羊飼いを除いて、ユダヤ人は誰も救い主を拝んでいないのです。このことは不思議なことです。 しかし、それにも増して不思議なのは、異邦人である学者たちが、聖書のことを詳しく知りもしないで、 東方でメシアが生まれたことを心の中でおぼろげに感じ、その招きに応えて、確かなことを知らないまま、何日もの長い旅に出発したことです。 たぶん 奥さんや友人からは反対されたことでしょう。にもかかわらず、知らない処に向かって冒険の旅に出たのです。
 やっとエルサレムに着いた学者たちは、ユダヤ人の王さまが生まれたのだから、皆が喜んでいるだろうと思ったのですが、誰一人としてメシアの誕生を喜んでいません。 学者たちは驚き、がっかりしながらも、星の示してくれる処まで行きました。
 救い主の前にひれ伏した時、言葉で表すことのできないほどの素晴らしい喜びと慰めを感じながら、この赤ちゃんは神様から送られたひとり子だと認め、 信じ、赤ちゃんを礼拝したのです。
 私たちも、イエスこそ私たちの主キリストであることを宣言いたしましょう。