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『和田幹男 『日本26聖殉教者とシシリー島』
 神戸のカトリック住吉教会は保護の聖人として日本最初の殉教者のひとり、聖パウロ三木をいただいています。
第二次世界大戦末期に空襲で焼失しましたが、かつてその祭壇の背後に聖パウロ三木の日本画が掲げられていました。
創立されたばかりのこの教会の主任司祭ヨゼフ・デラ神父と伝道士であった父は、この聖人の名を取って、わたしの洗礼名としました。
そういうわけで、幼少の頃から聖パウロ三木およびその同志聖殉教者のことに特別な関心を抱いてきました。
特にブスケ神父の著作『聖人物語』第二之巻(二月の聖人)の中に日本26聖殉教者について書かれていて、何回も読んだ覚えがあります。
最近でもそれを読むたびに感動を覚えます。
「いのち」は尊いものですが、その自分の「いのち」より尊いものがあり、それが信仰です。
26聖殉教者を思うとき、この信仰の価値があらためて心に呼び覚まされます。
カトリック甲子園教会の保護の聖人も同じ26聖殉教者の一人、聖フランシスコ吉で、同教会には親しみを覚えます。
 この殉教という出来事の歴史学的検証も、今日では専門家によってかなり進んできています。
キリシタン時代の歴史家、あのイエズス会士ルイス・フロイスが目撃証人として書き送った報告書があって、これに基いてその詳細がわかっているのです。
この報告書も日本語に翻訳されています(結城了悟訳・解題『ルイス・フロイス日本26聖人殉教記、聖ペトロ・バプチスタ書簡』,1994年、長崎純心大学;聖母の騎士社、聖母文庫)。
1997年、日本26聖人殉教400周年にあたり、日本カトリック神学会総会で長崎純心大学片岡千鶴子学長がそのほかの資料も用いて、詳しく、また鮮明にその歴史的現実を説明してくださった。
それは「二十六聖殉教者のメッセージ」と題して、『日本カトリック神学会誌』第9号(1998)5-33頁に手際よくまとめられています。
その歴史的現実は厳しく酷いものでした。
厳しく酷いだけに、喜んでそれを受けとめた殉教者たちの崇高な心が輝いて見えます。
ルイス・フロイスの殉教記と片岡学長の論文を拾い読みして、殉教者たちの最期を窺がってみます。
 1597年2月5日、3人の少年を含む26人は、禁足令にもかかわらず集まった人々がどよめく中を、刑場に着いた。
彼らはまもなく十字架に縄で縛られ、その十字架はつぎつぎと立ちあげられた。
イエス、マリアの御名を呼び、自分の命を御手に委ねる祈りを唱え、互いに励ましあい、彼らの態度には何の恨みも憎しみもなく、かえって清純な喜びと希望を感じさせた。
三木パウロは十字架の上から最後の説教を行った。
 「今、最後の時にあたって、わたしたが真実を語ろうとすることを、皆さんは信じてくださると思います。キリシタンの道のほかに、救いの道がないことを、私はここに断言し、保証します。わたしは今、キリシタン宗門の教えるところに従って、太閤様はじめ、わたしの処刑に関係した人々をゆるします。
わたしはこの人々に少しも恨みを抱いていません。
ただせつに願うのは、太閤様をはじめ、すべての日本人が一日もはやくキリシタンになられることです」と。
 少年ルドヴィコ茨木は自分の背丈に合わせて作られた十字架に走りより、十字架の上では縛られた体と指先を動かし、「天国、天国、イエス、マリア」と言って喜びを表した。
その傍で十字架に架けられた少年アントニオは、ラテン語で詩編、Laudate pueri Domini,「主の子供たちよ、賛美せよ」(詩編113)を唱えた。
この詩編は「主の御名を賛美せよ。今よりとこしえに、主の御名がたたえられますように。日の昇るところから日の沈むところまで、主の御名が賛美されますように」と続く。
実際に、この殉教は、その「日の昇るところ」、日本から主にささげられた賛美だった。
 槍の穂先を見たとき、聖殉教者たち、そこにいたキリシタン全員が一斉に声高らかに「イエス、マリア」と唱え始めた。
アントニオは隣にいるペトロ・バプチスタ神父に「神父様、歌いましょう」とテ・デウム(『教会の祈り』の「賛美の賛歌」)を歌う中を槍で刺され、「アントニオは天国でテ・デウムを歌い終わった」と記されている。
 遺体は八十日間、さらしものにされた。
その後、十字架から下ろされたが、そのとき少年トマス小崎がしたためた母への手紙が父ミゲルの懐から発見された。
少年トマス小崎は父とともに捕らえられ、京都には二人の弟と母を残してきた。
長崎に連行される道中、安芸の三原の牢で牢番の親切により母への最後の手紙を書いた。
「・・・わたしと父上ミゲルのことについてはご安心くださいますように。天国で近いうちにお会いできると思います。・・・現世ははかないものですから、天国の永遠の幸せを失わぬように努めてくださいますように。・・・わたしの弟たちマンショとフェリペを未信者の手に渡さぬように御尽力ください。・・・」と。
この手紙を父にあずけたが、父はそれを京都に届ける術もなく懐に抱いて長崎に行き、この手紙を懐に抱いたまま槍を受けた。
発見された手紙はこの父の血に染まっていた。
 これは単なる悲劇でもなければ、信仰の英雄談でもありません。
福音の証しそのものです。
福音とは、十字架の上で死んで復活したイエスが、復活者としてその信仰者からなる教会の中に現存し、活動しておられるということです。
その現存は力なく惨めに見えても、実は神の力。
それは無意味で愚かに見えても、実は神の知恵(1コリ1:24)です。
26聖殉教者の最期は、まさにこの現存の証しです。
マルコ福音書が説くのも、この「福音」です。
マルコも、イエスを信じる者が迫害され殉教していくにもかかわらず、力強く根づいて広がりゆくその「福音」の起源を書こうとしたのです。
「神の子イエスの福音の始め」(マルコ1:1)と題して、その洗礼から始めて、宣教活動、十字架上の死と埋葬までイエスの生を書いたのでした。
これは「始め」であって、福音はマルコの時代も、またその後も教会の中に力強い現存を続けています。
26聖殉教者はこの福音の証しだったのです。
 彼らにあったような信仰は、はたして人間に可能なのでしょうか。
それは人間の力の限界を超えているとしか言えません。
もしそれが可能であれば、それはひとえに神の恵みによります。
そういうわけで、彼らの殉教は、同じわたしたちの信仰が神の恵みにほかならないことを示しています。
洗礼を受けた人はみな、この恵みを受けているのです。
ですから、洗礼を受けた人がいるということ自体、この歴史の中に神の力強い現存があるということのしるしでもあるのです。
 日本26聖殉教者が処刑されたのは2月5日でした。
それは聖女アガタの祝日でした。
ですから、この聖女アガタの祝日に日本で大殉教があったと西欧に伝えられました。
聖女アガタはシシリー島のカタニヤで殉教し、エトナ火山の厄介からの保護の聖女として崇敬されています。
ですから、シシリー島の人々は日本26聖殉教者に特別な敬意と親しみを覚えたのでしょう。
シシリー島の州都パレルモにあるイエズス会の教会には、日本の聖殉教者を記念する脇祭壇があります。
ここでは26聖殉教者中3人のイエズス会士殉教者だけが記念されています。
昨年の夏、マフィアで悪名高きパレルモでたまたまこのことを聞き、お参りしてきました。
イタリアではローマ北方の港町チヴィタ・ヴェッキヤにあるフランシスコ会の教会とともに、パレルモのイエズス会の教会も日本の聖殉教者を記念する教会として覚えておきたい。